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工芸品紹介

人物から見た九谷焼の歴史

はじめに

 九谷焼のビッグネームを何名かピックアップして、九谷焼が歴史的にどのように変遷していったかを見てみたいと思います。

どのような流れで石川県の伝統工芸九谷焼が出来上がっていったのか。

その九谷焼の歴史を知り、興味をもっていただければ幸いです。

九谷焼という伝統工芸品を作り上げた職人達

後藤才次郎

現在の石川県南部、大聖寺藩の藩士にして鋳金士(銀座、貨幣鋳造関連の部署)の人。

九谷焼の創始者の一人として有名である。

江沼郡九谷の山の鉱山開発の過程で発見された陶石を使い、磁器を作ることになる。

後藤才次郎は肥前有田に藩命により色絵磁器の技術を学ぶために送り出されたと言われている。(肥前有田説が有力のようだが、唐津、対馬、景徳鎮など説が色々)

古九谷窯で色絵磁器の焼成に成功するも約50年程で閉窯。

藩の方針転換で窯を閉めるよういわれたため。禁制品の輸入を疑われたから、富裕層向けで採算が合わず、藩の財政が悪化したからなどの説は色々あるがはっきりはせず。

後藤才次郎に白羽の矢が立ったのは鋳物師であったため絵具の鉱物原料に詳しかったから選ばれたのかもしれない。

後藤才次郎は如何にして色絵磁器の技術を学んだかということは、フィクションでも登場しているが、あくまでフィクションであるとのこと。

色絵花鳥図鉢 古九谷 17世紀 能美市九谷焼美術館蔵 CC BY 4.0

吉田屋伝右衛門(1752~1827)

加賀の豪商吉田屋の4代目、72歳で若杉窯の本多貞吉の息子本多清兵衛と門人の粟生(あお)屋源右衛門と共に、九谷焼の再興を目指し100年越しに、江沼郡の九谷村に九谷焼の窯を開窯した。

山代に窯を移した翌年に76歳で没した。

晩年の心の燃え方が半端ではない。

古九谷へのリスペクトから九谷焼を再興するのは、九谷村でなければならないという思いがあったと考えられる。

かなり豪放で情熱的な人物だったのだろう、私財を投げうち、完成させた窯は採算が合わないことや吉田屋の家系の不幸もあり、資金繰りが行き詰り七年程で閉じることになる。

しかしながら、吉田屋窯は、古九谷の青手を再現した青九谷を生み出し、現代でも吉田屋風ということで伝統的な画法となっている。

期間こそ短かったが、その果たした役割は大きく、後の世の九谷焼につながっていく。

まさに再興九谷の代表的な名窯である。

吉田屋伝右衛門は九谷焼中興の立役者として後の時代に名を残した。

色絵紫陽花瓜文角鉢 吉田屋窯 1824年~1831年 能美市九谷焼美術館蔵 CC BY 4.0

飯田屋八郎右衛門(1852没)

廃業した吉田屋窯は、宮本屋宇右衛門に引き継がれ、そこで主力となったのが画工の飯田屋八郎右衛門である。

彼は染物に絵付けをする職人であり、細密描写に優れた手腕を持っていた。

宮本屋窯は吉田屋窯の青手からうってかわって、当時人気の赤絵による彩色を主なスタイルとした。

赤九谷とも言われ、青九谷と並んで九谷焼の顔となったようである。

主力であった飯田屋八郎右衛門は赤絵細描に優れ、赤絵金襴手も生み出した。

後に彼の技法は飯田屋風や八郎手とも言われ、現代でも多くの九谷焼に影響を与えている。

赤絵福寿字入大深鉢 宮本窯 江戸末期 能美市九谷焼美術館蔵 CC BY 4.0

永楽和全(1826~1896)

京焼の陶工、加賀大聖寺藩に招聘され、九谷焼に金襴手などの技術を持ち込んだ。

九谷焼に従事した期間は6年程であるが、あまりその土地の人とは馴染もうとしなかったが陶工の原呉山とは仲が良かったらしい。

彼が持ち込んだ技術は高く評価され、金襴手は九谷では永楽風と称され、九谷焼において伝統的な画風として確立している。

金襴手鳳凰文鉢 12代永楽和全 1823年~1896年 能美市九谷焼美術館蔵 CC BY 4.0

九谷庄三(1816~1886)

九谷焼の業界に満を持して現われたような人。

陶業や画業を行う家で生まれたわけではなく、農家の息子であった。

奉公先の窯元から才能を見込まれ、メキメキと頭角を表していった。

粟田屋源右衛門や宮本屋利八(宮本屋右衛門の子)から影響を受け、赤絵細描、色絵、永楽風の金彩を加えた彩色金襴手を生み出す。

現在は庄三風と言われている画風。

産業九谷の第一人者であり、いち早く分業体制を取り入れることで、九谷焼を大量生産するシステムを作り上げた。

工房に300人ほどと言われる工人を雇い入れ、いわゆる工場制手工業により海外向けの商品を仕上げていった。

ジャパンクタニとして海外に広く受け入れられ、一大貿易品となった九谷焼は日本での磁器輸出量は一位となった。

性格は温厚で仕事に対して真摯で、弟子を育てるのも熱心であったとのことである。

工房は彼の没後に、工人を取りまとめる人間がいなかったのか解散したが、そこから九谷庄三の技や思想はさらに広がったのではないかと思われる。

現代九谷に直接続く基盤を作り上げた一代の巨人であったと言える。

龍花卉文農耕図盤 九谷庄三 1816年~1883年 能美市九谷焼美術館蔵 CC BY 4.0

終わりに

九谷焼はここから更に時代の波にもまれ、産業ならではのジレンマや障害を乗り越えながら続いています。

加賀藩の文化事業として始まった九谷焼は、現代は産業としての九谷焼と、産業としてではなく一つの職人技、一つの工芸品としての九谷焼が共存している状態です。

また他の地域からの技法も柔軟に取り入れることで多様な九谷焼が生まれており、それが職人の仕事ややりがいの裾野を拡げているようにも見受けられます。

これは九谷焼の事業としてのスタミナ的な側面である経済性や持続性を産業が支えているから可能であると言えるでしょう。

伝統工芸産業が苦しい現代ですが、そのなかでも先人の積み上げてきた九谷焼に、今携わっている方たちが更に新しい「九谷焼」を築き上げ、なお発展を続けています。

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