はじめに
日本では独自の茶文化が発達してきました。
その発達の過程で様々な茶道具が生まれてきており、抹茶を入れるための道具である茶入れもその一つです。
茶入れは、その価値が高騰した戦国時代には、物によっては一国一城の価値があるということもありました。
その茶入れの形の一つに肩衝があります。
名前を聞いても面白そうな肩衝がどのようなものかざっくりと調べてみました。
1、肩衝の由来
肩衝は茶入れの一種で、口の部分のすぐ下の肩と呼ばれる部位が張り出している物を指します。
大きさは小さめの湯呑程度の物が多く、主に抹茶の濃茶用です。
茶入れの起源は1191年に『喫茶養生記』を著した栄西禅師が中国の宋より持ち帰ってきた茶の種を入れていた小壺がはじめと言われています。その小壺である漢柿蔕茶壷(あやのかきへたちゃつぼ)が高山寺に残っています。
茶入れは元々は中国で使われていた薬壺や油壷を、日本では抹茶を入れるために転用したことで用途が変わりました。
肩衝もそれらの小壺の形の一つです。
栄西禅師の『喫茶養生記』は茶の有効性を述べるとともに、その医学的な効果に多く言及しているので、茶は薬ということで薬壺に入っていたのかもしれません。
2、肩衝の歴史とその評価
中国から輸入された茶入れを唐物(からもの)と言い、特に室町以前の質の高いものを漢作と言います。
茶入れとして作られたものではなく、基本的には色は黒や茶褐色で、釉薬の景色も意図された物ではなく地味です。
それが日本の侘びやさびの価値観に合致し高く評価されることになりました。
日本の瀬戸でも作られ、それは和物、後に瀬戸以外で作られたものを国焼と言いました。
元々付属していなかった、主に象牙でつくられた蓋も付き、より茶入れらしくなっていきます。
三大肩衝と呼ばれるものもあり、「新田肩衝」、「初花肩衝」、「楢柴肩衝」として知られています。
戦国時代の天下人が所有していたことでも有名です。
おわりに
抹茶の喫茶習慣の衰退した現代では日常的に見ることがあまりない茶入れですが、昔は物によってはそれ一つで一国一城の価値があると言われるものでした。
肩衝はそれらの中でも、当時の武士の価値観に合致した形であったから、三大肩衝などと呼ばれるものも生まれて、流行したのかもしれません。
現代でこそあまり使われていませんが、その形や釉薬の景色は魅力的です。
その線は剛直であるとともに柔らかで、深い味わいがあります。
再び抹茶の喫茶習慣が日本に生まれるか、現代に合った全く違う使い方の提案があるのなら、また道具として流行することがあるかもしれません。