概要
奥田木白は奈良県の伝統工芸品赤膚焼の中興の祖と言われる人物です。
江戸時代寛政12年(1800年)に生まれ、明治4年(1871年)に没しました。
全国の特に茶陶の写しを得意としており、仁清写しや里恭写し、奈良絵風などが有名。
焼物を本格的に始めたのは37歳頃のことで、職人としては遅咲きです。
ここから衰退期にあった赤膚焼を盛り上げ、現在に続く流れを作り出したことには驚きを禁じえません。
そんな赤膚焼中興の祖・奥田木白どのような人物であったのでしょうか。
奥田木白の経歴
奥田木白は大和郡山郡城下(現奈良県大和郡山市)の堺町というところで、御用小間物商「柏屋」の子として生まれました。
木白の号は「柏屋」の柏を分けて作られたといわれています。
37歳に焼物を本格的に始めるのですが、そこまでに窯元で修行した記録などは残っていません。
しかし、いきなり始めたのではなく、青木木兎などの陶工とも付き合いがあり、商売柄人脈も広かったことで口伝を受けるなどのある程度の準備はできていたと思われます。
この頃は主に楽焼を焼いていたようです。
赤膚焼に関わり始めるのは天保11年(1840年)頃のことで、赤膚焼の伊之助窯に依頼して製陶を行ったとのことです。
これ以後、焼物づくりが家業のようになっていったようです。
嘉永3年(1850年)51歳で江戸に旅をした時に、茶湯の宗匠である平井宗三という人物を訪ねており、その際に茶陶など100点ほどの注文を受けています。
このことから、この時期には奥田木白の名は知られていたことがうかがわれます。
注文品もほとんどが「写し物」ということで、写しに卓越した技術を持っているという評価があったと思われます。
晩年も作陶に関わる意欲は衰えず、病床においても新しい煎茶器を工夫していきたいという旨の書簡を送っています。
72歳で死去するまで、多くの作品を世に出し、赤膚焼中興の祖と後に呼ばれるほどの功績を残しました。
経歴から見た人物像
奥田木白は全国の陶土や釉薬の知識を学び、「諸国焼物写し」の看板を掲げるような人物で、非常に面白みがあります。
全国の陶土や釉薬の研究を重ねることからも、好奇心旺盛かつ勤勉な人物であったと思われます。
家業は小間物商ですが、藩の金融斡旋業も許可されており、その人脈は高位の人物にまで及んでいたと考えられます。
つまり、口コミによる作品の知名度のアップや陶磁器に対するニーズを掴むことができました。
また、江戸に旅をした時には、自分の作品を持っていくなど陶芸家としての自信と、家業からくるのか商売人としての周到さも兼ね備えています。
奥田木白は陶芸家として優れているだけでなく、数寄者で同時に商売人でもあるというバランスの取れた人物であると思います。
おわりに
赤膚焼の主に奥田木白の展示を最近観ましたが、作風が多彩で、教えてもらえなければとても一人の人物が作ったとは思えないほどです。
元々職人でなく、焼物を本格的に作り始めるのも早くはなかったにもかかわらず、赤膚焼中興の祖と言われるようになった奥田木白。
陶芸家としての才能、育った環境もあったのでしょうが、その奔放な好奇心こそが奥田木白を名工たらしめた最大の要因ではないでしょうか。
赤膚焼の衰退期にあらわれ、赤膚焼をまた有名にし後世にまで大きな影響を与えたのは、多彩な陶技を操る商人というのは、当時関わっていた人は誰も想像しなかったと思います。
奈良の赤膚焼は木白など先人の息吹を確かに感じられる伝統工芸品です。
奈良県に立ち寄った際には、是非今の窯元なども覗いてみてください、奥田木白の気配が感じられるかもしれません。