はじめに
日本において戦国乱世が終結しつつあった安土桃山時代。
この激動の時代において、茶の湯が流行し、その道具である茶碗などの需要も増しました。
中国や朝鮮の茶陶が流行した時代でもあり、その影響を受けた日本独自の陶器作りも大きな転換点をむかえました。
そんな時代において特に美濃桃山陶に武将が与えた影響を紹介してみたいと思います。
1,美濃桃山陶とは
美濃桃山陶とは、安土桃山時代に現在の岐阜県東濃地方で焼かれた陶器です。
多くの様式があり「志野」、「黄瀬戸」、「瀬戸黒」、「織部」が有名です。
安土桃山時代から江戸時代初めにかけて、茶の湯(茶会のこと)の流行とともに、
美濃桃山陶は最盛期を迎えます。
しかし江戸時代になると、茶の湯の流行の変化や、尾張藩主徳川義直の政策による美濃から瀬戸への職人の帰還などが重なり、美濃桃山陶は衰退していきました。
2,織田信長の文化経済施策の影響
美濃桃山陶の発展において、欠かせない役割を果たした武将の一人が織田信長です。
飛ぶ鳥を落とす勢いで、領地を拡げていた織田信長は強力な武将であると同時に様々な商業の活性化政策を行っています。
「楽市楽座」や関銭の廃止が有名で、これらの政策により商業が活発化し、物流も飛躍的に向上しました。
また、手柄を挙げた家臣に領地でなく茶道具を与えるなど新しい論功行賞の形を作り出し、武士の間での茶陶の流行にも大きな影響を与えています。
信長は、天正2年(1574年)に加藤市左衛門尉(諸説あり)に「瀬戸焼は瀬戸の地でしか作ることを許可しない」という旨の朱印状を与え、それにより瀬戸焼のブランドを強力に保護しました。
また、瀬戸の陶工加藤景豊に大平(現可児市)での開窯を許可。
その息子の美濃焼陶祖加藤景光も久尻に移動し、ここに瀬戸焼ではない、瀬戸焼の技術を取り込んだ美濃桃山陶の基盤が出来上がりました。
これらのことから美濃桃山陶の発展のきっかけを作ったのは信長だと言えるでしょう。
3,古田織部と美濃桃山陶
美濃桃山陶の発展を語るうえで欠かせないのが古田織部。
現代では、漫画の「へうげもの」で有名な古田織部です。
織田信長の家臣であり、また千利休の筆頭弟子である<利休七哲>の一人であり、茶の湯の発展に貢献しました。
千利休の後継として豊臣秀吉に仕え、後に江戸幕府2代将軍徳川秀忠の茶の指南役となります。
「人とは違うことをしろ」という千利休の教えからか、師の侘びた美とは違い、侘びだけでなく華やかさも加えた美を追求した。
桃山茶陶の一種に「織部」という様式がありますが、これは古田織部の名前からとられたものです。
織部自身が作陶したものではないと思われますが、織部の茶陶の好みで焼かれたものであると伝わっています。
「織部」は形が特徴的で、器形が作為的に歪められており、織部釉という緑色に発色する釉薬がかけられているものが一般的です。
千利休の好んだ静的な楽茶碗とは違い、非常に動的で、その対称は面白いと思います。
天下第一の茶人となった古田織部のプロデュースも加わり、隆盛した美濃桃山陶ですが、
古田織部が切腹し、後継者の小堀遠州が織部とは違うスタイルの茶の湯を行ったこと、また焼物の流行の変化などもあり衰退していくことになります。
4,まとめ
織田信長が基盤を整え、古田織部がプロデュースすることで隆盛した美濃桃山陶。
武将が美濃桃山陶に与えた影響は大きく、「美濃桃山陶」という一つの大きな文化を作り上げるのに大きな役割を果たしたと言えるのではないでしょうか。
しかし、同時にそれを推進する武将がいなくなってしまうことで技術も衰退しました。
流行は儚い物であると思いますが、流行が人に依存する危うさも現れているのではないでしょうか。
それでも美濃桃山陶の評価は高く、昭和に入って荒川豊蔵が忘れられつつあった「志野」を復活させました。
一過性の流行で終わらずに、後に技術を復活させる人間がいたのも美濃桃山陶にそれだけの魅力があったということでしょう。
武将をはじめ様々な人々の思いで作り上げられたものが、今も残っています。
この時代の文化を背景に置きつつ鑑賞するとまた別の見どころが見つけられます。